2020年中学入試 周年問題を予想する ―その1―
720年(養老4年―1300年前) 「日本書紀」完成
「日本書紀」は日本史上における最初の正式な歴史書とされています。先行する史書として「古事記」がよく知られていますが、「古事記」には勅撰である(天皇の命で編纂された)という確証がないため、国家の正式な史書には加えられていません。両者の違いを簡単にまとめておきます。
- 古事記
- 712年/和銅5年成立 編者は太安万侶(おおのやすまろ)
稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた天皇の系譜と伝承をまとめたものとされる。
元明天皇に献上された。 - 日本書紀
- 720年/養老4年成立 編者は舎人(とねり)親王
天皇個人の伝承部分が少なく、国史としての色合いが濃い。元々は天
武天皇の命で編纂が始まったが、中断を経て元正天皇の時代に完成したという。
天皇を中心とした中央集権国家を造るという「大化の改新」の理想は、朝鮮半島情勢の悪化(663年・白村江の戦)や国内の争い(672年・壬申の乱)など諸事情によって頓挫を余儀なくされていました。そこには、蘇我蝦夷・入鹿父子が除かれたとはいえ豪族としての既得権を失いたくない各氏族の思惑も絡んでいたものと思われます。しかし、壬申の乱の勝者となった天武天皇とその妻であり、後継者でもあった持統天皇の時代には、天皇とその近親(皇親)、また「大化の改新」の功労者・中臣鎌足の子である藤原不比等が中心となって改新の方針は現実のものとして動き始めるようになります。それに伴って、天皇家に対する絶対的な神格視が生まれ、国家意識が高まるようになります。「日本書紀」というある種モニュメントの誕生は、こうした文脈の中で語られるべきことでしょう。
2019年の改元をめぐり、皇室への関心が高まったためでしょうか。19年入試では「天皇」や「年号」に関する歴史が数多く出題されました。来年度もその傾向は変わらないことが予想されます。
この時代は狙われやすい時代だと考えて、密度の濃い勉強をしましょう。
【参考】 7世紀末から8世紀初頭の重要歴史年表(上記記事は除く)
- 681年 天武天皇による律令制定の命令
- 689年 飛鳥浄(きよ)御原(みはら)令完成(持統天皇)
- 694年 藤原京完成(持統天皇)
- 701年(大宝元年) 大宝律令完成(文武天皇)」
- 708年(和銅元年) 和同開珎鋳造(元明天皇) ※漢字の違いに注意
- 710年(和銅三年) 平城京完成(元明天皇)
- 713年(和銅六年) 「風土記」完成(元明天皇)
1420年(700年前) 雪舟、生まれる
日本における水墨画の祖と言われる雪舟は1420年、備中国(現岡山県)に生まれました。京都の相国寺(臨済宗)で修業をし、のち、守護大名・大内氏の庇護を受けて周防国山口(現山口県山口市)に移ります。1467年(応仁元年)、勘合貿易の船に乗って明に渡り、本格的な水墨画の技法を学んで帰国しました。
代表作の「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」など6点の作品が国宝に指定されており、個人としては最大の数になっています。
中学入試において雪舟は、室町後期の東山文化を代表する画家として、必ず覚えなければならない歴史人物の一人に数えられています。東山文化の大きな特徴は「禅宗の強い影響を受けている」ことです。雪舟の水墨画以外の禅宗とかかわりの深い文化財を挙げておきます。
【参考】
- 枯山水
砂と石を用いて水を使わずに山水(自然)を表現する庭園様式。おもに禅宗の寺院に設けられ、京都の大徳寺大仙院、竜安寺(りょうあんじ)方丈庭園などが有名です。 - 茶の湯
日本人が茶を飲む習慣は、鎌倉時代初期、臨済宗の開祖である栄西が中国から茶の種を持ち帰ったことから始まります。鎌倉末期には公家から庶民にまで広く親しまれるようになりました。そこに精神性を盛り込んだ「わび茶」を始めたのは、室町幕府8代将軍・足利義政の茶の師匠であった村田珠光(じゅこう)だと言われます。安土桃山期に現れた千利休により、「わび茶」は「茶道」として大成されました。
1720年(享保5年―300年前) 江戸に町火消が設置される
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗による一連の政治改革、「享保の改革」については今さら語るまでもないでしょう。その「享保の改革」の目玉政策(?)の一つに庶民の意見を聞く「目安箱の設置」があります。目安箱を元に実現された政策として中学受験生が覚えておかなければならないのが、
「小石川療養所の設置(医師・小川笙(しょう)船(せん)の意見による)」とこの「町火消の整備」です。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉もあったように、江戸の町はいくたびもの大火に見舞われた歴史を持つのですが、幕府の制度化した大名火消や旗本の定火消(じょうびけし)では大規模な火事に対応することができませんでした。目安箱の訴状を元に吉宗は、町奉行・大岡忠相(ただすけ)に命じ、隅田川以西を担当する「いろは四十八組」と川向うの本所、深川(現在の墨田区、江東区)を担当する16組から成る町火消制度を整えました。
【参考】
- 大岡忠相
吉宗の定めた「足(たし)高(だか)の制(禄高の少ない者が幕府の重要役職に就く場合、任期の間だけ禄高を上げる制度)」によって、江戸の町奉行、のち寺社奉行に登用され、町火消の設置以外にも、刑罰の基準となる「公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)」の制定、前記小石川療養所の設置、青木昆陽による「さつまいも」の研究、さらには株仲間の公認など吉宗の行った重要政策の多くに関わりました。 - 江戸の三大火
《明暦の大火(通称・振袖(ふりそで)火事)》
1657年3月(新暦、以下同じ)。死者は10万人以上。江戸時代最大で、江戸城の天守閣が焼け落ちた火事としても知られています。幕府は火除け(ひよけ)地や広小路を設けたり、掘割をめぐらせたりするなど、火事に備えた都市計画の実施を優先し、その後天守閣が再建されることはありませんでした。
《明和の大火(目黒行人坂の大火)》
1772年4月。死者・行方不明者合わせて2万人弱。原因は放火によるものです。この火事をきっかけに年号は「明和」から「安永」に変えられました。2020年度入試では、年号に関するこうしたエピソードも心に留めておきたいものです。
《文化の大火(丙(へい)寅(いん)の大火・車町火事・牛町火事)》
1806年4月。死者1200人超。日本橋、神田、浅草を焼きつくし、焼失家屋は12万6000戸と伝えられます。