2019年中学入試*周年問題を予想する ―その2―

1929年(90年前)…世界恐慌

⇒ 「恐慌」とは大規模な不景気が突然起こることをいいます。1929年10月、アメリカのニューヨークで起きた株価の大暴落は、ソビエト連邦など社会主義国を除く世界の経済を大混乱に陥れました。

この恐慌の波は翌年日本にも到達し、国内は深刻なデフレに見舞われます。都市部では企業の倒産が相次ぎ、街に失業者があふれました。一方農村では、アメリカへの生糸の輸出が激減したことから繭の価格が暴落した上に、デフレで他の農産物の売れ行きも鈍ります。特に東北地方では、冷害、凶作に加えて昭和大津波(1933年)の影響で人身売買や欠食児童の問題が多く発生しました。

アメリカに加え、「ブロック経済」政策をとっていたイギリス圏の貿易からも締め出された形の日本国内では、大陸進出による市場獲得をめざす意見が日増しに強くなっていきます。後に国際連盟脱退(1933年)時の全権代表を務め、近衛文麿内閣の外務大臣として日独伊三国軍事同盟(1940年)を結ぶことになる松岡洋右が、「満蒙(まんもう=満州と内モンゴル)は日本の生命線である」という演説を行って世論の賛同を得たのもこのころです。

当時の大蔵大臣・高橋是清の積極的な歳出拡大政策(リフレ政策)が功を奏し、日本は比較的早く恐慌から抜け出すことに成功しました。にもかかわらず、その後のインフレを防ぐために高橋が作成した軍事予算削減案は軍部(特に陸軍)の猛反発に遭い、彼は二・二六事件(1936年)の犠牲者となってしまいました。

1949年(70年前)…冷戦の激化

⇒ 第二次世界大戦後の世界を待っていたものは、第一次大戦後に見られたような平和・軍縮に向けた流れではなく、アメリカを中心とする資本主義諸国(西側)ソビエト連邦(東側)を中心とする社会主義諸国の厳しい対立でした。実際に戦火を交えることのないこの対立を「冷たい戦争(冷戦)」、ないしは「東西問題」と呼びます。

1949年4月にはアメリカと西側諸国による軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)が発足します。9月には西ドイツが、翌10月には東ドイツが相次いで誕生し、ドイツの分断国家化が決定します。また、この年にはアメリカを震撼させる二つの大きな出来事がありました。

①中華人民共和国の成立

日本との戦争中は協力して日本と戦っていた国民党共産党(このことを「国共合作」といいます)は、戦後再び対立し、内戦が再燃していました。この戦いは共産党の勝利に終わり、世界最大の人口を持つ国は社会主義国に生まれ変わりました。なお、このときの共産党の指導者は毛沢東(もうたくとう)、敗れた国民党の蒋介石(しょうかいせき)は台湾に移って臨時政府を建てます。
(※「中国」としての国連代表権は1971年まで台湾政府が持っていました)。

②ソ連、原爆実験に成功

それまで核兵器はアメリカだけが保有し、それはアメリカの軍事的優位をほぼ絶対的に証明するものでした。しかし、この年の8月にソ連が原爆実験に成功したことで、米ソ両国はより強力な核兵器の開発競争に突入することになりました。核戦争の恐怖が現実のものと人類に降りかかってきたのです。

 

この後世界は、朝鮮戦争(1950年~)ベルリンの壁建設(1961年)、キューバ危機(1962
年)
、アメリカのベトナム戦争本格介入(1964年~1975年)など分断と対立の時代に入っていきます。

1989年(30年)…昭和から平成へ/天安門事件/冷戦の終結

⇒ 1989年1月7日、昭和天皇が崩御され、翌1月8日より元号は「平成」に改められます。

⇒ 4月には、民主化を求めて北京の天安門広場に集まった学生デモ隊に対し、中国軍が発砲するという「天安門事件」が起きます。死傷者の数など、事件の詳細は中国政府がひた隠しにしているためはっきりしませんが「軍が政府の命令によって民衆を銃撃した」ことは事実と考えてもいいようです。

⇒ 6月のポーランド議会選挙における民主派の勝利をきっかけに、東ヨーロッパのほぼ全域で民主化運動が盛り上がり、まさにドミノ倒しのように、各国の社会主義政権は打倒されていきました(東欧革命)。11月には冷戦の象徴とも言われたベルリンの壁が崩壊し、分断国家の代表だったドイツは再び統一への道を歩きはじめます(再統一の実現は1990年10月)。

⇒ 12月、地中海に浮かぶ島国・マルタでアメリカ大統領・ジョージ=ブッシュとソビエト連邦書記長(のち大統領)・ゴルバチョフが会談し、45年におよぶ「冷戦の終結」を世界に高らかに宣言しました。