2019年中学入試*周年問題を予想する ―その1―

1019年(1,000年前)…藤原頼通関白となる/刀伊の入寇

藤原頼通はご存じ藤原道長の息子で後継者、50年近くも関白を務め、摂関政治の最後を飾った人です。京都府宇治市の「平等院鳳凰堂」(1053年完成)を建てた人としても有名ですね。頼通の死後、摂関政治は急速に衰え、1086年、白河上皇によって院政が始められることになります。

⇒ 刀伊の入寇(「といのにゅうこう」と読みます)は、「刀伊」とはユーラシア大陸の日本海沿岸に住んでいた民族だと考えられています。この年突如対馬、壱岐を襲い、大勢の者を殺したり連れ去ったりしました。その後博多湾からの上陸を目指したものの、大宰府の長官であった藤原隆家率いる九州武士団によって撃退されたといいます。この事件をめぐる朝廷のあたふたぶりは、当時の摂関政治がいかに「政治」として機能していなかったかを物語るものでしょう。

ちなみにその藤原隆家は清少納言が仕えた藤原定子(一条天皇の皇后)の弟で、「枕草子」にもユーモアのある人物として登場しています。

1219年(800年前)…源実朝暗殺される

源頼朝北条政子の子で鎌倉幕府3代将軍の実朝は、鶴岡八幡宮(※左画像)の参詣の帰り、兄・頼家(2代将軍)の遺児である公暁([くぎょう])に待ち伏せされ、殺されます。公暁自身も間もなく殺されたため事件の背景は不明ですが、この事件を幕府の内紛と見た後鳥羽上皇が、チャンス到来とばかりに、1221年承久の乱を起こし、失敗して隠岐(島根県)に流されることになります。

実朝は歌人としてもすぐれ、手紙を通じて歌人の藤原定家新古今和歌集の編者)に師事していたといいます。実朝の私家集(個人歌集)「金槐(きんかい)和歌集」は現代も高く評価されています。

また、実朝の死によって「清和源氏」の本流は途絶えますが、後に歴史をにぎわす足利尊氏新田義貞武田信玄などはれっきとした「清和源氏」の支流であり、そのことを誇りにし、利用もしていたようです(自称「源氏」の徳川家康はかなり怪しいのですが…)。

実朝の死後、幕府は京都の藤原家から将軍を迎え(摂家将軍)、その後は天皇家から迎えるようになって(皇族将軍)、鎌倉幕府の将軍は9代まで続きます。彼らに政治的実権はなく、北条氏による「執権政治」が行われていたことは皆さんご存知の通りです。

1919年(100年前)…パリ講和会議/ベルサイユ条約/三・一事件/五・四運動

⇒ 1914年に始まった第一次世界大戦は、約1,000万人の戦死者を出した果てに、1918年11月、ようやく休戦を迎えます。翌年、フランスパリで講和会議が開かれ、6月の「ベルサイユ条約」締結をもって正式な終戦となりました。

この会議でアメリカ大統領・ウィルソンは「平和のための十四か条十四か条の平和原則)」を発表し、この提案がのちの国際連盟設立につながります(当のアメリカは不参加でしたが)。

この会議では「民族自決主義」が認められ、ドイツ・オーストリア・ロシアなど旧「帝国」に支配されていた東ヨーロッパから多くの独立国が誕生しました。にもかかわらずアジア・アフリカの植民地体制はそのまま維持されたため、朝鮮の「三・一事件(三・一独立運動)」、中国の「五・四運動」など各地で激しい独立運動、外国人排斥運動が起こりました。

三・一事件(三・一独立運動)」に対して日本の「朝鮮総督府」は激しい武力弾圧を加え、多くの死傷者が出たと言われています。このとき日本の官憲に捕えられ、獄中で死んだという当時17歳の女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)の名前が中学入試に出題されたこともありますが、この「朝鮮のジャンヌ・ダルク」をめぐる歴史的事実はいまだ不明の部分が多いようです。